台湾人の両親のもと東京で生まれ育ったハウルさん。台湾・高雄で4年間、ニューヨークで5年間を過ごし、現在再び東京に住んでいます。移住前は期待ばかりだったと笑いながらも「台湾、アメリカとも楽しむまでは時間がかかった」と話します。
名前:ハウル 年齢:35歳
東京都出身。台湾人の両親を持つ。都立高校を卒業後、台湾の高雄大学に進学。卒業後は東京に戻りオンラインリサーチ企業などで勤務。結婚を機に夫の仕事の都合でニューヨークに移住。日系商社などで勤務し5年ほど滞在した後、昨年から再び東京在住。
高雄大学への進学
—————台湾の大学に進学しようと思ったのはいつですか?
ハウル:高校3年になってすぐ。コース制の高校の国際科に通ってたから、周りも留学志望の人は多かった。最初は英語圏に行きたかったけど学費が高くて。
私は中国語を全然話せなかったから、英語の前に自分のルーツの言葉をと思って、台湾もありかなと。
そんな時、たまたま「台湾に高雄大学ができました」っていうお知らせが家に届いた。華僑協会を通じて学生を募ることはあって、「受験してみませんか」という内容で。すごいタイミングだと思って、受けてみようと。
高雄には私の両親とも親戚がいて、帰省で何回か行ったことはあったしね。
—————ご両親が日本に移住したきっかけは?
ハウル:父が日本で商売をしたかったんだって。両親は台湾で職場で出会って、結婚を機に日本に移った。父はお土産関連の自営業をしていたよ。母方の祖父が慶応大学に留学していて、母にはその影響もあって日本の短大への留学経験もあった。
—————受験の科目はどんな内容?
ハウル:高校の時の成績書と英語か中国語での小論文。私は英語で書いた。最初は補欠だったんだけど、一人辞めるって言うので入学できてしまった。
世界中から華僑生が集まる
—————大学では華僑生はどのくらいいましたか?
ハウル:私が入学したアジア圏の経営学の学部は華僑生が多くて、3分の1が華僑生、3分の2が台湾の子かな。香港、マレーシア、カナダ、南アフリカとか色々な国から華僑生が集まっていた。華僑以外の留学生はいなかったな。
—————華僑生だけでも国際的な感じしますね。
ハウル:そうそう!みんな話す言葉も文化背景も別々。同じ華僑でも然違うと思ったよ。

—————台湾に行く前に中国語の勉強はしていました?
ハウル:ほとんどしてなかった。今思えば、なんでしなかったんだろう。家では両親同士は中国語で話してたけど、子供はみんな日本語で話していたし。
現地では留学生向けの中国語コースもあったけど、入学前に知らなくて私はとらなかった。幸い大学の教科書は英語で、あれが中国語だったら多分卒業できてない。
—————他の華僑生はみんな中国語できたんですか?
ハウル:みんなできてたな。カナダとか南アフリカの子も中国語ペラペラ。留学生レベル以下は本当に私だけ。
家で話すかどうかがすごく大きいのかも。うちの母親が「家でもっと中国語話させれば良かった」って言ってた。今思えばもったいなかったのかな。
————–台湾に行く前に期待や不安ってありました?
ハウル:私は結構楽観的で、行く前はいつも期待ばかり。「新しい友達できるんだろうな」とか「中国語ペラペラになれるかな」みたいな感じだった。
到着後「無理かも、終わりだ」
—————実際引っ越した時はどんな気持ちでしたか?
ハウル:着いてみたらもう不安だらけ。初めて親元を離れて、言葉も分からないとこでやってけるのかって。
しかも大学に着いてみたらすごい郊外で、さらに建物が出来上がっていなくて。水道が通ってないとか、泥の山があるとか。この状態でよく学生呼んだなって(笑)。
「無理かも、終わりだ」と思った。いろいろ辛くて最初の半年は最低限の講義だけ出て、あとは寮に引きこもってた。
—————引きこもりをやめたきっかけは?
ハウル:彼氏ができたんです(笑)。講義中に知り合った台湾の人。そこからトントンと中国語が分かるようになった。留学後半は現地の人とあんまり変わらないくらい。台湾語は分からなかったけど。
中国語と台湾語は全然違う。中国語=マンダリン=北京語で、台湾には台湾語がある。私は父親が内省人。台湾にずっといた人たちで、台湾語を話す。母方は外省人。外省人は中国内戦の結果、一種の政治難民として台湾に渡った人たち。
台湾は学校では北京語が使われていて、昔は学校で台湾語を話すと怒られたって聞いた。私の世代でも小学校の時怒られたっていう子がいた。今はないと思うけど。
—————その後、高雄での学生生活はどうでした?
ハウル:もう勉強に必死。簡単なはずのテストでも私は言葉で遅れをとっていたから、周りより勉強しなければいけなかった。週末は従姉妹に勉強を教わっていた。台湾は学生での飲み会とかはあまりなくて、みんな勉強している。
帰国、そしてニューヨークへ
—————卒業後の進路はどうやって決めましたか?
ハウル:台湾での就職も考えたけど、中国語が第一言語じゃないと難しいところが多くて。進路は決まっていなかったけど、卒業と同時に日本に帰ることにした。周りは大学院に進む子が多かったな。男性なら兵役に行く人もいたし。
日本に帰ってきた後は、いくつかの職場で働いて、2年半ぐらいで結婚を機に辞めることにした。夫がニューヨークで仕事をすることになって一緒に行くことにして。

—————アメリカに行くことは悩みましたか?
ハウル:悩まなかった。環境を変えたいと思ってたタイミングだったから。
仕事で人には恵まれてたけど、忙しくて体力的にも辛かった。アメリカはずっと行ってみたかったし、願ったり叶ったりで「行く!」って。
この時も、また期待ばっかりだったよね(笑)。「アメリカいいな」「英語ペラペラになれるかな」みたいな。けど行ったら行ったで「何言ってるか全然わかんない」「大変だ」ってなったんだけどね。
母親が繋げてくれた仕事
————–行く前の英語力はどうでした?
ハウル:読み書きは多少できたけど、話すのは全然だめだった。ニューヨークは話すスピードが早くて、本当にわからなかった。そういうのもすごいしんどくて、また引きこもり。夫が仕事でいない時は本当にこもっていた。
————–何をきっかけに引きこもりから脱したんですか?
ハウル:語学学校。平日は毎日5ヶ月間通ったよ。その後しばらくしてから、現地の歯医者さんで受付の仕事を始めた。
その仕事を見つけられたのは母親のおかげ。母親が旅行でニューヨークに来ていた時に腕を痛めて、台湾人の先生がいる病院に行ったの。そこで母と先生が意気投合して「この子に仕事ないですかね」と聞いたら、友達の歯医者さんを紹介してくれた。
歯医者さんは台湾人で、アシスタントは日本人。患者さんは日本人と中国語話す人半々ぐらいで、ぴったりと思って。でも仕事では英語で電話することが多くて結構ハードルが高かった。でもおかけで英語が上達したかな。
—————その仕事はどのぐらい?
ハウル:2年ほど。会社で働きたい思いもあって、転職しようっていう気持ちが湧いて。
その頃に、台湾に住んでいた父親の体調が悪くなった。肝臓がんの闘病生活が長かったんだけど、急に状況が悪くなって。
半分看取る気持ちで台湾に行こうと思って、その時に歯医者を辞めた。でも帰る準備をしてる間に父親が亡くなってしまって。間に合わなかった。その後私は2ヶ月台湾と日本にいて、母と一緒に父親のお墓についての対応をしていたよ。
その後ニューヨークに戻って仕事を探し始めた。「次が見つかるまで」ということで前の歯医者さんの仕事をさせてもらいながら。すごく応援してくれた。
—————次の転職先はどんなところでしたか?
ハウル:日系のエージェントを通じて見つけた日本企業で、ボタンとかの服飾資材を卸してる商社。
オフィスは小さくて当時3人だけ。駐在のマネージャーがイタリア人と日本人とのハーフで、もう一人が日本出身の韓国人、そして私が日本生まれの台湾人。みんな日本出身だけどいろいろで、ニューヨークっぽかった。雰囲気はすごく自由で家族みたいな感じ。そこでは 2年5ヶ月働いていた。
—————その後、日本に帰ってきた後も同じ企業で働いてたんですよね。
ハウル:そう。でも日本は全然違って。ニューヨークでは、良いものを追求する厳しさはすごくあった。でも日本では慣習で物が売れる感じが残ってて、ぬるいというか違和感があった。「変わらないと」と提案をしても、簡単には変われるものでもなかった。
それでご縁もあって今の会社に移ったというか、戻らせてもらった。今の会社はアメリカに行く前に働いてた同じオンラインリサーチ会社。前の経験からスピード感に付いてけるかは心配だったけどね。相変わらず人に恵まれてるよ。

自分を「日本人」とは呼ばない
—————台湾とアメリカに住んでみて良かった事は?
ハウル:台湾に帰ることで、初めて自分のルーツを受け入れることができた。中国と台湾の関係性を勉強しようと思えたのは行ったからだし。
あと私は、生まれ育ちは日本だけど自分を「日本人」と呼んだことは一度もない。日本生まれの台湾人。でもニューヨークではそう言ったことを本当に誰も気にしない。いろいろなバックグラウンドの人ばかりだから。そう言った面で、すごく楽だったのはあるな。
ニューヨークは世界の縮図みたいで、みんな違う文化を持ってるから、違う文化を受け入れるキャパができたとも思う。それが一番大きな成長かも。
————–台湾とニューヨークでそれぞれ一番大変だったことは?
ハウル:言葉が大きいと思う。伝えたいことが伝えられない。赤ん坊だよね。
台湾は親戚がいたし親日の人も多いけど、アメリカは知り合いもいないし外国人でも特別扱いはない。英語がわからないと下に見られることもあったし、少しきつかった。台湾は半年で楽になったけど、アメリカは「楽しいかも」と思うまでに3年かかった。
台湾もアメリカも、生活に慣れようと必死で余裕がなかった。夫はそういうのも含めて楽しめる性格だけど私は追い込んでしまうタイプ。最初は新鮮でも「いつまで続くんだろう」「もう日本に帰りたい」と感じることが何回かあった。
恋しいのは遠慮のなさ
—————台湾とニューヨークで恋しいことはありますか?
ハウル:人の関係性かな。台湾もニューヨークも、本音でオープンだし遠慮がない、いい意味で。
例えば、電車の中でお年寄りがいたら「座って!」と席を譲る時とか。日本だと距離感はあるじゃない。60歳ぐらいの人だと「譲ったら失礼かな」とか考えすぎちゃう。それがやさしさでもあるんだけど、遠回しだからたまにめんどくさい、みたいな。もっと単純で良い気がする。
私の課題でもあるかも。私自身、人とシンプルに付き合いたいけど「この人はどこまで距離詰めて大丈夫かな」とか探りすぎてる部分があるかなって。こう言う事考えてる時点で、私も日本で育ったんだなと思う。
—————また移住したいですか?
ハウル:うん。でも積極的に行こうとは今は思っていない。初めて落ち着く心地よさみたいなものを感じていて。
今までは腰を据えて生活することがなかった。ニューヨークもずっと住む想像はできなかったし。でも去年東京で家を買って、長く使える家具も買った。これは初めての経験。
今はここで文化や人と繋がりたい。いつかまた移住の機会があったら良いし、なかったらなかったで。今を楽しみたいと思ってるよ。



